子どもには
ある年齢に達すると
学校という【学び】の場が提供される。
そして、
その環境で日々【学び】と向き合う。
これは、
全ての子どもに等しく与えられた「宝もの」のような権利だけれど、
我が家のムスコたちを見るにつけ、令和の今、
その価値に心を震わせ感謝をしつつ、その恩恵を余すところなく受け取り続ける、なんてことはかなりの難易度なんだよなぁ…と感じる。
かく言う私も、
昭和→平成と駆け抜けた【学び】の日々を振り返るにつけ、
「ありがたみ」に心を震わせその機会を受け取っていた…とは、口が裂けても言えない。
それどころか、
数々の恩恵を「当たり前」とぞんざいに扱い、
「こんなの、い~らない!」
と、ポイポイ捨ててきてしまった。
未熟とはいえ、
なんてこった…。
それにしても、
この「当たり前」のベールって、ニクいやつなんだよね。
ほんとはキラキラ光輝く「宝石」なのに、
その辺の道端に落ちてる「石ころ」のように見せちゃうから。
いやはや、まんまとよ。
そんな愚か者の私も、
ポイ捨て現役のムスコたちを見ていると、
「もったいないっ!」
と思わず口出しせずにはいられなくなる。
「君たち、どれだけありがたいことか、わかってる??」
て、どの口が言っとるんじゃい!だけどね…。
だってね、
ポイ捨て先輩の私が立つ現在地は、
【学び】の場が欲しければ、
自らの手で一から全てを手繰り寄せなくてはならない。
それは、時間もお金もかかって容易じゃない。
そんなことよりも最もやっかいなのは、
身体がね、脳ミソがね、
「もう無理っす……」
と、すぐに悲鳴をあげてくることっ!!
とにもかくにも、
大人の【学び】は骨が折れるわけよ。
でも、
そんなに手こずりながらも、
それでも【学び】へ「手」を伸ばし続けるのであれば、
逆にそれは、どうしても「手」に入れなくてはならないものなんだよなという、確信にもつながる。
そして、その確信は力となってヘコたれそうになる私を支えてくれる。
かつての私にはなくて、
今の私にあるもの。
それは、
具体的に手に入れたい「モノ」があって、
それの明確な「使い道」があるってことかな。
だから、
すぐに息切れするし、
すぐに忘れてしまうけど、
ジタバタしながら
しぶとく「手」をのばすのだ!!